失敗は、進化の母

みなさんご承知の通り、マイナンバーカードをめぐる様々なトラブルのニュースが、日々賑わいをみせ、「こんなカードを使っても本当に大丈夫?」と、不安に感じる人も多いのではないでしょうか。行政の対応が遅いこともありますが、トラブルの大方はヒューマンエラーが原因です。厚労省は、マイナ保険証の誤登録が2021年10月~22年11月に7312件あったと発表。これをメディアが、「7312件も誤登録があった」と大々的に報道し、カードシステムに無知な人が返納。それをまたメディアがネガティブ報道するという始末。しかし、カード交付数8997万件(5月時点)中の誤登録の割合はわずか「0.008%」=「12500件に1件のミス」が実状で、これは宝くじの高額当選レベルの確率です。私はむしろ、「役所の人たちは、よくがんばった」と称賛してあげてもよい成績ではないかと考えています。

人々は常に「無謬性(=ノーミス)」を追求しますが、人間の行うことに完璧はありません。むしろ、人類はこのような誤りを犯すたびに悩み苦しんで、それを教訓としながらさまざまな研鑽努力を繰り返して成長し、今なお「進化」を続けることができているのだと思います。

「失敗は、進化の母」。だから、ミスは自分の糧にして、毎日ポジティブに生きていきましょう!

「法」のもつ意義

「法」のもつ意義はさまざまです。法は社会の秩序を維持するための枠組みとして存在し、法によって、権利や義務・禁止事項が明確化されることで、個々の行動が社会に与える影響を制約することができ、これによって、社会の安定や公共の利益が守られるのです……と、少々固苦しい書き出しになってしまいました。(汗) 法とは、国が定める「法律」や自治体の「条例」のこと。企業や組織の「規定」・「規約」、村の「掟」なども、広い意味で法と考えてよいのかもしれません。大ざっぱに言うと、法もある種の「ルール」です。

では、何のために法やルールは存在するのでしょうか? 多くの人は、「守らない人を取り締まるため」とか、「反した人に罰を与えるため」と答えるのでしょうが、私はそうではなく、法で「してはいけないこと」を定めることによって、「できることを明確化する」ためであると考えています。つまり、「法に定まっていないこと」=「してもよいこと」なのです。世の中に、法の代わりに、「してもよいことリスト」しかなかったとすれば、私たちの生活や行動は極端に制限されてしまうはずです。

家庭にもいくつかのルールがありますよね。それらは「やっていいこと、いけないこと」を区別し、家族間をスムーズに回していくための潤滑油だと考えてみてはいかがでしょうか?

『いつかは…』の言霊(ことだま)

私が生まれた昭和の時代。当時の日本は、現代とは比較にならないほど貧しく、生活必需品などの物資も行き渡らず、公共インフラなども乏しい。少し上の世代なら、ご近所とテレビや電話を共用するような家も少なくありませんでした。かといって、いつも人々は明るく元気で希望に満ちていて、どの家にもたくさんの子どもたちの笑い声が響き渡っていました。だから、決して「不幸」などではなかったと記憶しています。今と比べ、はるかに不便で不自由な時代。当時の一般の人々は、大なり小なりの「我慢」を強いられながら生きていました。もとより、それが当たり前の生活でしたから、特に我慢だとは感じていなかったのかもしれません。

そんな暮らしを、明るく元気に過ごすことができた理由。それは、あの頃の人たちが「常に未来を見つめていた」からであると、私は考えます。「今は苦しくても、この先に必ずステキな未来が待っている」と、みんなが確信して生きていました。その原動力となった言霊。それが、『いつかは…』です。今は貧しくても、「いつかは豊かになって、今よりももっともっと大きな幸せを家族全員で必ずつかむ」ことを信じて…。

特進館学院の生徒たちには、一人ひとりが夢と目標をしっかり持って、『いつかは…』の言霊の力で、志望校の夢をきっとかなえてくれるものと、私は強く心に刻んでいます。

人生何とかなる!

「お天気おじさん」で検索すると、最初に出てくる福井敏雄さん。徳島弁の生真面目キャラが大人気で天気予報や数々のバラエティ番組等で活躍…。初めて出会ったのは1989年の春。当時、私は大阪の塾で週6日の授業と開発・企画の仕事を担当。ある日、「塾の講演会をして、お天気おじさんに講演してもらおう!」という提案が挙がりました。その当時の福井さんは、テレビだけでも『探偵!ナイト…』、『おれたちひょうきん…』、『笑っていい…』など、超人気番組の多数のレギュラーで、塾の講演会などを受けてもらえる見込みは皆無でしたが、若気の至りで、無謀にもアポなしでテレビ局に突撃。しかも本番中に…まるでテロリストです。(笑)ところが奇跡的に会ってくださって、なんと教育講演会の依頼も快諾いただけました。

その頃、私は自らの結婚式の1か月前に媒酌人の恩師が急逝。それを聞かれた福井さんから職場に電話が…「よければ私が代理で仲人をしましょうか?」。そんな訳で平成元年6月25日、私たち夫婦は関西で最も多忙な有名人ご夫妻の媒酌で、温かく和やかな結婚式を挙行。その後、2005年の春に84歳で天国に旅立たれるまで、親子のようにお付き合いいただきました。「あの時、ダメ元で挑戦してよかった」。生涯でいちばんの素敵な思い出です。そう、私の座右の銘は、「人生何とかなる!」

『捨て色』のヒミツ

ユニクロなどの売り場で、「こんなド派手なシャツを誰が買うんだ」みたいな商品を見たことがありますよね? 私はそんなシーンで、「世の中には、こんな奇抜な服を着る変人もいるんやなぁ~」などと勝手に思い込んでいましたが、先日アパレル業界の人の話を伺って、実はそうではなく、『ある戦略』に基づいて行われているということに気付かされました。

店側は、派手な色は売れないことを知っていながら、「わざと売れにくい色を売れ筋の定番色の中に混ぜる」ことで、「より一層定番商品が売れる」ことが、大きな理由なのだそうです。

売れない色や形の商品をわざと店頭に並べるのはアパレル業界では常識で、このような色を『捨て色』と呼んでいます。服に限らず、人はモノを購入するシーンにおいて、必ず別の商品と比較をして、意思決定を行う心理的習性を持っている…とのこと。

物事が思うようにいかなかったり、テストで点数が取れなかったりしたときに、自暴自棄になって、「自分なんかどうせ、いてもいなくてもよい存在だ」なんて投げやりになってしまった経験はないですか? そんな時は、「今回は捨て色になって、奴らに花を持たせてやったぜ!」なんてつぶやいて、心を落ち着かせることもアリなのかもしれませんね。(^o^;)

「一流人」の条件とは?

今はなき野村克也元監督の座右の銘に、「金を残すは三流、名(業)を残すは二流、人を残すは一流」という有名な言葉があります。長い人生の終わりにその人が何を残すか…ということで、真の人格がわかる。なかなか含蓄のある言葉だと思います。

お世話になっている教材会社社長のコラムに以下のようなフレーズがありました。「私は時々教材の展示会でビジネスホテルに泊まることがあります。以前はホテルを出るときには使った寝間着やスリッパ・タオルなどは無造作に至る所に放置していました。ところがある時、何かの本で『一流の人か否かは,ホテルに泊まった後の部屋の様子を見ればわかる』という文章に出会いました。言われてみれば確かにその通りで,もし私がホテルの清掃スタッフだったら、部屋に入った瞬間、『その人の魂のグレード』のようなものを感じ取ることでしょう。(中略)むしろこのようなところにこそ,その人の人格のレベルが表れるような気がします。」

子どもの頃に祖母によく、「お行儀が悪い!」と言って叱られました。「お行儀」を、英語に訳すと「マナー」とかになるのでしょうが、日本語はそんな浅薄なものではなく、「誰もいないところでの人の立ち振舞」なども含めた、奥深い意味を秘めている…と考えます。

きれいな水に、魚は住めない

ちょっと前のコラムで、「ストレスがある人は、幸せな人」というお話しをしました。日本の養殖魚が天然魚並みに質の良い理由は、漁網にわざと天敵を入れて、あえてストレスを与えるから…という内容です。真珠は、貝に入った異物のおかげでできる産物であるという話も…。

ところでみなさんは、「海」といえばどんな風景が浮かびますか? 日本海の荒波、それとも南太平洋の島々の透き通った海でしょうか? おそらく、「青くて透明(マリンブルー)の海」を浮かべる人が多く、「濃い緑色の海」と答える人は少ないと思います。

日本のおいしい魚の多くは、瀬戸内海のような濃い緑色の海で捕れます。お世辞にもきれいとは言えないこの緑色の海の水は、魚にとって栄養価の高いプランクトン類をたくさん含んでいます。加えて、山地が近い瀬戸内海などは、川から流れてくる豊富なミネラル分にも恵まれ、おいしい魚が育つ条件がそろっている…というワケ。反面、南太平洋のような透き通った海は、「海の砂漠」のようなもの。魚たちにとっては、生きるのが過酷でツラ~い場所だそうです。

人生の中では、きれいなものより汚いものを見る機会が多い。悩みのない人より、悩める人が多い。だからこそ、人はたくましく成長できるのだと思いませんか?

愛情のエッセンス

以前に経営していた塾での話。遠征イベントの帰り道に、隣の市の某大手ハンバーガー店で参加者と食事中に、向かいの席の生徒が唐突に、「先生、ここのハンバーガーおいしくない」と言い出したことがありました。私は思わず、「チェーン店なのだから、味はどこも同じはず」と返しましたが、その子は頑として承知しない。他の生徒まで「確かに、三田店の方がおいしい」などと言い出す始末…。その後、気になって作り方を調べたのですが、やはり全国のどの店も同じマニュアル通りに調理しているらしく、結局、その原因究明は迷宮入りに…。

ところが昨年の上海冬期五輪で、“ロボットが100%調理した選手村の料理がおいしくない”という報道を知って、何か手がかりをつかめたような気がします。その前の年の東京五輪では、日本の人が調理した選手村の料理が世界中の選手から「最高においしい!」と称賛されたのに、レシピに完全忠実にロボットが作った料理は悪評を受けた理由。そして、隣市のハンバーガーがおいしくない理由。それは、一番大事な『愛情のエッセンス』が欠けていたということではないでしょうか? 料理を、科学や素材の力だけで片付けてはいけません。有り合わせの具材でも、『おふくろの味』は最高にうまかった! 教育も同じであると、私は考えています。

未練タラタラの元塾長

一般の方はあまりご存知でないかと思いますが、ここ1~2年は塾業界でのM&A(企業の合併・買収)が急加速しています。私の親しい友人塾長3~4名も自分の会社を高値で売って、塾経営の第一線から退いていきました。特進館学院を始める前の自分なら、たぶん「うらやま悔しいなぁ~」とフェイスブックでつぶやいていたかもしれません。でも、今はそのようには全然思わず、むしろ、「気の毒な人たちやなぁ~」と苦笑してしまいます。

だって、大好きな塾の仕事も、大好きな社員たちも、大好きな生徒たちも、大好きな仲間の塾長たちも、大好きな取引先の人々も、すべて捨てて、手元に残るのは、無機質な●●億円の札束だけ。売った後も、塾長としてずっと塾に残るならアリですが、塾を売って現場を離れてしまったら、もう社員や生徒と会うことすらできなくなります。

にもかかわらず、自らの意思で塾を売って離れたのに塾の仕事を捨てきれず未練タラタラでいつまでも周囲をうろつく元塾長を私は何人も見ています。ちょっと、みっともないです…。

だから、私はそんな生き方をしたくはありません。だって、この仕事は楽しくてやりがいがあって、この業界とともにこれからもずっと歩んでいきたいから…。

対面とオンライン 真の違いは…

コロナ禍でオンラインが標準となりつつありますが、「対面」と「オンライン」は、はたして同じなのでしょうか? ある学者が、対面会話とオンライン会話との、それぞれの脳波の反応を調べた結果、大きな違いがあることがわかりました。対面では、参加者同士の間に“共感”が生じますが、オンラインではそれが生じない…その原因は、次の2つにあるようです。

①コミュニケーションの基本は「相手の目を見る」ことですが、オンラインでは目線が微妙にずれるので、会話に大きな違和感が生まれる。②通信速度が多少ズレてしまうので、脳波は粗い電子的な紙芝居のようにしか反応せず、相互の信頼関係が生まれにくい…とのことです。

また、「オンライン」と「スマホ」で脳への複合的リスクも高く、「携帯・スマホを長く使う生徒ほど成績が悪い」などのデータもあり、「SMSメッセージのやりとりは、学力低下効果が大きい」、「スマホで調べるのと、紙の辞書で調べるのとでは“記憶の再生力”が違う」などの弊害もあるようです。耳に痛い話ですが、私たち学習塾においては、わかりやすく学習指導を行うのとあわせて、『ITツールとの上手な付き合い方の指導』を強化することも、今後重要な取り組みであると考える今日この頃です。